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松果体は、振動するのか

話がしつこくなったので、改頁して、あらためて書きます。
夢の中での、小人の顔だけでなく、全身がぷるぷると振動しているのを見て、この振動がどうしても気になるので、さらに書いてみます。

松果体とか松果腺という話題になると、やはりなんといってもヨガの分野が強いでしょう。
というわけで、しっかり内容を忘れた昔の本を引っ張り出してみました。お年寄りには懐かしいかもしれませんが、M・ドリールの「ヨガの真義」霞ヶ関書房の本です。
ヨガといって、ドリールを持ち出してみるのがなんとも奇異かもしれませんが。

301ページ。
「そのための行法としては、まず、われわれが松果腺と呼んでいるところの内分泌腺を振動させることから始めるのである。外へエネルギーを放射することからはじまる。まず、ゆっくりと松果腺を振動さし、だんだん速度を早め、しまいには、松果腺全体をものすごい速さで振動させる。それが出来てから、バイブレーション(振動)に調整が起こり、振動律の変化がおこってその振動による放射線のようなものが、頭の内部で、松果腺の周囲のある霊的中心点へ放射されるのである。この振動が霊的中心にまでとどく様になるには、大体二時間ほどかかるであろう」

ドリール説だと、この松果腺は、魂と、身体のつなぎ目のようなもので、言い換えると、非時間的、非空間的な意識と、空間、時間的な意識をつなぐ中枢のようなものだという話。で、まずは松果腺を活性化しないことには、脳にあるほかの要素も活性化してくれないので、まずはこれが、入り口になるということ。
松果腺あるいは松果体そのものは、物理的な面からだけ見ると、もちろん身体機能だけに関係していることになるが、身体的な作用だけに限らない組織を、物理的に観察するだけでは、それは当然役割は理解できないことになるでしょう。なので、ここでは、生理学的な知識、一般に言われている機能という知識に全面的に依存すると、間違った判断になるということですね。

夢の中で、ぷるぷる震える感じに心引かれ、興味深かったので、いまだにこだわるのですが、ドリールのいう、だんだん速度を早めるというのは、この速度がそのまま、同調する世界を決めてしまうということでしょうね。

ちなみに、わたしはこのドリールと、翻訳者は、同じ目をしていると、思っていました。二十代の頃に読んだ本なので、その頃にそう思ったのです。で、さらに、同じドリールの団体の右腕みたいな女性の場合も、同じ光り方をしていて、びっくりしました。いわば、感情のないガラス状の目です。この目があまりにも特徴的だったので、ドリール関係には興味を持ってしまったのですが、必ずしも、それは肯定的な意味で解釈していたわけではありません。脳がちょっと・・・と思っていました。

わたしたち、社会共同体に属する人々は決して同調することのない世界に同調して、その振動が身体を貫くと、そういう目になるのではと思います。これは松果腺の振動に関係あるでしょう。
振動しているときは、体感でわかるはずです。
たとえば、モーツァルトの音楽を聴くと、弦楽器の合奏の音で、頭の中心がジーンと響くような印象を受けるはずです。頭の真ん中を、ハケでこすられているような感触。ちょっとしびれるような。音と音を組み合わせると、単独の弦楽器では決して出てこない周波数が出てくるのですね。あれは、物理的に、ある振動が、頭の真ん中を刺激しているわけで、それをモーツァルト効果と言ってるはずです。

松果腺は同調装置として使われる可能性がある。しかし一般の場合にはそのような使い方をしていない。日常的なことの同調に使われている。しかし、ドリールの言うように、ここに「振動をかけて」違うものにチューニングすることは可能である。ドリール団体の人々は、まったく同じものにチューニングしていた。同じものに同調していると、同じ目になるということでしょう。
これは、ドリールの本をそのまま受け取れば、地球内部の世界とか、ホワイト・ブラザーフッドということになるけど、実際にはわかりません。

ちなみに、夢の中で、バッタを頭に乗っけるゲームをしていたのは、わたし以外に、二人くらいいました。
| 名前の由来 | 10:46 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |

やっぱり気になる

今日になって、この映像また気になりました。
小人が震える速度が早く、とくに顔の周囲の毛のような、光輪のような部分が、微細に動いていたので、ホログラフィの投射装置のような感じにも見えてきます。顔よりも下の身体は、むしろゆっくりと左右に曲がっていました。
何か遠いものを受信して、そして、世界の映像を投射している装置なのでは、という印象です。脳の中に、投射機のランプがあるような感じで捉えてもいいでしょう。
吉田戦車風の丸顔も、ランプだと思うと、納得がいく。



ディヴィッド・アイクの陰謀論、すなわち、宇宙から来たレプティリアンという爬虫類人が、低次四次元界から、世界中の人に、虚の映像を送信し、幻想を見せているという、映画マトリクスのような世界像は、人間の身体の構造そのものを拡大解釈したもののようにも見えます。

爬虫類人でなく、爬虫類脳に、世界のホログラフィを見せるホムンクルス型のランプがあって、そこに、遠いところから、映像が送信されている。
世界は、レプティリアンが支配しているというよりも、爬虫類脳が支配しているということ。
わたしたちの心、つまり羊脳は、それを変えることができない。新皮質としての人も変えることができない。低次四次元世界に彼らがいるというのはそれはそうです。十分に低次でないと、映像化できないのだから。低次四次元は時間の流れの方向を支配するわけですから。(身体の物理的な組織も、組織によっては、こうした不可視の機能を半々持っているというのが、シュタイナーの発想でもある。非物質の機能が一番強い代表が、脾臓。)

アイクは、わたしたちの世界はレプティリアンに洗脳されていることに気づけと言うけど、これはそのまま、わたしたちの脳組織の中で、レプティリアン領域にこそ、世界を支配する中枢が埋もれていて、それをなんとかしないことには、人生は変わらないということに気付け、と言い換えてもいいのではないかと思うのですが。羊脳や、人脳、すなわち感情や知性をいくらいじりまわしても、この虫脳には届かない。

生命の樹とか、いろんな秩序だった修行体系では、最後に、一番低いとこに行きます。カバラでは、最後の段階で、地上というマルクトの接触する世界のカードに向かいます。これは十牛図でも、最後になって、山の上から降りてきて、町の若者に出会う。そこをいじらないことには、変わらない。「根底から」という言い方をよくしますが、まさに、この根底です。

グルジエフは「人類は昔から高い意識は十分に発達している。問題は、低いところにある」と言いましたが、高次な意識を発達させた後、それが強固になったなら、はじめて、この低い「低次四次元界」の虫脳に、手を出すことができるのかもしれない。
途中で関わり合いになると、どうしても巻き込まれがちになるので、手順があるのではないかと思います。
よく超能力に関係するサードアイなどに関わるよりも、もっとより高いところを目指したほうがいいという意見があります。これは昔のグルの言葉を鵜呑み引用した発想です。現実には、低次四次元界は巻き込まれやすく、だから、それに耐久度がないことの言い訳として、そこにかかわるのは良くないという発想を借りてきてしまう面も多いです。(たいていそういう人たちは、体験なしに言う。)実際関わると、急激に乱れるんですよね。コントロールの効かないめちゃめちゃな状態になっていく。でも、そこに関わらないことには、何も変わらない。
イメージとして言うとわかりやすいと思うけど、哺乳動物や羊脳は、感情に訴えることで、説得できる。しかし、虫脳には感情がないので、気持ちで接点を作ることができない。もちろん知性も働きかけできない。気持ちも言葉も通じないものをどう制御するか、ということを考えると、いかに難しいかわかるでしょう。よく道場では、儀式以外では変成は生じないという言い方をすることがあります。これは、儀式には、虫脳に直撃的に関与する力があるという意味も含まれています。

プレアデス人は、どこかで戦争が起こると、それを避けて、違うところに行く。またそこで戦争が起きると、また移動して、違うところを探すということを繰り返してきたというふうに説明されることも多いけど、それに対して、戦争に深く同一化するオリオン人との対比は、虫脳と羊脳の対応でもあるかな。

バッタを頭に乗せる遊び。夢の中では、この頭の上に載せると、バッタの足が脳に食い込むので、それがかなり警戒心を呼び起こしたので、躊躇していたのです。 
| 名前の由来 | 07:41 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

続き

夢の中で、五センチ程度の高さもない小人が、
トンボの羽みたいに、ぷるぷると揺れていて、
その揺れが、背後の死んだような、あるいは死んでいないのかもしれないが
死んでそうなくらいに動きの鈍重なバッタに伝わり、バッタがあたかも生きているかのように見えるという
細部の印象が、その後気にかかったので、付け加えを書きます。

吉田戦車の漫画風のホムンクルスは、非常に軽い素材でできていて
半透明。この繊細感は、なかなか忘れられない感じがあった。
虫の脳は、実はこの小人の動きに操られているだけで、虫そのものは受信機能がなかった。

で、わたしたちは、社会という閉じられた世界で、しかも自然界から孤立した社会の中に安住するには、
この松果体という、天体やら、自然界やらに敏感にぷるぷると反応する働きを抑制し、
その引き替えに、人と人との関係などから発生するものに深入りすることを積極的に行ってきたのだけど、
そして近くの人のことは見えるけど、遠くの自然界の響きは聞こえないというふうになってきた、ということなのだけど、これは日本人は江戸時代を超えられないと言われていることにも関係するでしょう。
共同体の住人を、互いの情感で結びつけ、定住させ、互いに監視しあう組織化を進めた段階で、
同時に、外部通信機能のスイッチを切る必要性が生じた。織豊時代から続く江戸時代に、このシステムは完成したのでしょうね。
地に埋められたクニトコタチというのも、こういうことに関係あるのでは?
デカルトの言うホムンクルスは、世迷い的な見解だと思っていたので、こんな映像見ると、ちょっとリアルさを感じます。
で、脱出口は、脳の外側にあるのではなく、脳の中心のさらに奥にあると考えてもいいのでは。
太陽系の外に行くには、太陽系の中心に向かう必要があるという話と似てますね。
小人をまず起こそう。石灰化して、残骸になっていなければ。
| 名前の由来 | 22:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

占いハウス、第三の眼という名前の由来は

代々木の物件を見た時に、
その場所は、ステーキハウスと、野菜屋さんの間にはさまれていたのです。
なので、動物と、植物の間としての、虫のことを思い出しました。
これは「生命の階段」としての、振動の序列です。
絶対
大天使
小天使

哺乳動物

植物
鉱物
金属
無限

という階層です。タロットカードなどの絵柄には、まだこうした古代的な序列の名残があります。

脳の中で、脳幹、つまりジュラシックコードがある場所の中に
第三の眼と言われた、松果体が埋もれています。
わたしはこの部位を、「虫の脳」と呼ぶことが多いです。
脳を、虫、羊、人という三つに分けると、これは新プラトン主義でもあり、また脳の基本的な枠組みともなります。

虫の脳の中にある松果体は生体の中のタイマーのようなもので、
デカルトは、ここにホムンクルスのようなものが潜んでいると考えました。
松果体は、自然界のリズムに同調する性質があり、
結局占星術のタイミングなども、ここで受信するのだとわたしは考えます。
第三の眼というと
超能力を思い浮かべる人がいますが、それはあまり重要ではないのではないかと思います。
記録装置が発達してから、わたしたちは記憶する力を失ったように、
時計が開発されてから、わたしたちは松果体を使う必要性もなくなりました。
しかしあらためて現代的に、その働きを取り戻す必要もあるでしょう。
同調装置であり、それを失うことで、わたしたちは、自然界との呼応ができにくくなるからです。
失うことで、むしろわたしたちはより深く、この社会の機構に依存することにもなります。

これを書いている日の明け方、夢をみました。
いまこの行を書いている最中、いまのいま、その夢の内容を思い出しました。
バッタのお尻に爪楊枝を刺して、頭の上に乗せるというのが流行していて
わたしもそれをしようと思っていたけど、このバッタの腹に背中をもたせかけて、
バッタの身長と同じくらいの小さな丸い顔の人が直立しており、彼は生きて揺れています。
で、その揺れで、もうすでに死んでいるはずのバッタも、生きているように動くのです。
この小さな人の丸い顔は、まるで吉田戦車の漫画の登場人物のようです。
その作りの精密さに、わたしは感心していました。
夢の中で、バッタに爪楊枝をさして、頭に載せるという行為はなかなかに気持ち悪く
あまり気乗りしませんでした。
この遊びのような、流行が盛んだったのは、平安時代のような感じで、
わたしもお公家さんのような格好をしていました。あの木靴を履いていました。

で、この夢はもう朝に近かったのでしょう、
わたしはだんだんと目覚めてきました。
目覚めてくる最中に、
そういえば、小学生の頃には、虫を捕まえて標本にしたり、
ばらばらに身体を切り離して、いじりまわしていたり、と、抵抗感なくやっていたなと思い出しました。
とくにセミをいじりまわすのが多かったです。
みみずをたくさん瓶に入れて、冷暗所で発酵させる、という、思い出すに気持ち悪いことも平気でしていました。

個人の幼少期は、歴史の古い時代の再現です。
平安時代?奈良時代?
わたしは自分の中の平安・奈良時代には、虫を平気でいじりまわしていたのです。

江戸時代に入る前、豊織時代に、わたしたちは、狭い共同体の中に同調し、
この中でのみ生きるということを強制されるようになりました。
その基準に合わない自由な人を、「可哀想な、救いようのない人」と見なすような発送の逆転が
起こったのです。そうすることで、いいなりにならない人を集団的に力で押さえ込むことができるようになったのです。
すべての基準は、他者、そして社会にあるように考える習慣が身についたのです。
それ以上の遠いところを見てはならない、と。
わたしたちは、そのときに、虫と、その中にいる吉田戦車風のホムンクルスを失ったのかもしれません。(つまり機能はしているが、潜在下に押しやり、制御できない自動化へ。)
それらが活性化していると、共同体よりも向こうの世界を見てしまい、またそのリズムを受信してしまうのです。

夢の中で、気持ち悪いと思ったけど、気持ち悪いというのは
いつも使っているものと違うものが目覚めたり、活性化する時に感じることです。
いつものことをしている時に、わたしたちは快適。
いつもと違う神経を刺激すると、気持ち悪い。これはたとえば、動かない中指を無理に動かそうとしていると
なんか気持ち悪くて吐きそうになる体験を思い出してみると良いでしょう。
| 名前の由来 | 09:36 | comments(10) | trackbacks(0) | pookmark |

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